夏休み、トレックアメリカで行く、アメリカ縦断の旅 1
2,000年の夏、アメリカで過ごす、初めての夏休み、
私は、トレックアメリカに参加することにした。
これは、18歳から38歳の人を対象にした
北米各所を回るキャンピングツアーである。
私は、シアトルからロッキー山脈沿いに
ナショナルパークからナショナルパークを巡り、
ラスベガスで解散という、3週間のツアーに参加した。
メンバーはガイドのアメリカ人を入れて、14人。
イギリス、オランダ、スイス、スペイン、イタリア、ドイツ、デンマーク、ス
ラエルと世界各国からきた人たちで構成されていた。
アジア人は、私一人であった。
トレックアメリカの参加者は、圧倒的に女性が多いらしいが、
私たちのツアーは、山ばかリ巡るハードなコースのせいか、
男性8人、女性6人であった。
メンバーに男性が多いのは、有難かった。
毎日、バスの上にテントや皆の重い荷物を積まなければならなかったからだ。
ヨーロッパの男性は、本当に紳士的で、親切だった。
それに対して、
女性は、我がままで、傲慢だった。
彼女たちは、若く、
いつもピチピチしたショートパンツとタンクトップを着ていた。
体格がとてもよく、
いつもお尻や胸がゆさゆさ揺れていた。
体は大きいのだが、
長い手足と、ほりの深い顔立ちのため、野鹿のようにセクシーだった。
もしアジア女性が、
こんなに大きい体格をしていたら、
愚鈍な牝牛のような印象になった、と思う。
彼女たちは、いつも太陽の下で、日に焼けようとしていた。
愚鈍な牝牛である私が、少しでも日に焼けるのを避けようとするのとは、対象的だった。
彼女らは、いくら太陽の下にいても、少し赤くなるだけで、
次の日には漂白した陶器のように白かった。
それに反して、太陽の日差しを避け、
いつも日焼け止めを塗っていた私の体は、
床を拭いたぞうきんのように、日に日に黒く、汚れた色になっていった。
キャンプの旅はとても楽しいが、最高に快適というわけにはいかない。
皆で協力して、
料理をしたり、
荷物を運んだり、
片付けをしたりしなくては、ならないのだ。
まず、そういう雑用をみんなで片付けて、
それから思い切り遊ぼう!というのが理想だ。
だが、3週間も生活を共にしていると、
誰が朝早く起きて、みんなのためのお湯を沸かすのか、
誰がみんなの食器を洗うのか、
決まってきた。
私は、アジア的な考えで、
若い者が、率先して、雑用をこなさなければならない、という気がしていたが、
年長の気が利く、スペイン人男性と
軍隊経験のある、若いイスラエルの男性が
いつも、率先して雑用をやってくれた。
私は、そんな彼らにものすごく敬意を払っていたが、
黄金のおっぱいとお尻をもつ女の子たちは、違う考えだったらしい。
自分より、一回りも年上で、みんなのために尽くしてくれる、
陽気なスペイン男性にいじわるをするのだ。
ある時、彼がその辺の車に寄りかかっていると、
彼女らのひとりが
「やめろよ!よりかかるの!」
「アメリカ人がそうされるのを嫌いなのを知らないのか!」
「『やめろ!』と言っているだろう!」
「非常識だな」
と怒鳴りだした。
当て逃げしたわけでもあるまいし、
無人の車に寄りかかっただけで、なんでここまで言うのか?
「非常識はお前だろ!」
と思ったが、
そんな傲慢な彼女のことを、私をはじめ、
誰も注意しなかった。
テントは、二人一組で使った。
私は、オランダ女性と一緒だった。
彼女は、いつもドイツ、デンマークから来た、若いギャルズと一緒だった。
彼女ら3人は、みんながテントを張っている時、よく遊びまわっていた。
ある時、彼女らは、自分らのテントを張らなかった。
そして夜になると、私がひとりで張ったテントに
「四人でも寝られるよね」
と入ってきた。
きつかったけど、四人で眠れた。
私は、その時も何も言えなかった。
きっつい~
彼女らは、真夏の太陽に負けないくらい。輝いていた。
だから言いたい放題のこと言っても、
「そこにいてくれるだけでいい!」
という価値があった。
テントを張ったり、
片付けをしたり、
そういう雑用を
彼女らの代わりにやることに
男性たちは、喜びを見出していた、ように思う。
本当に彼女らの白い胸や太ももは、
ピチピチという言葉がぴったりで、
女の私から見ても、
目が離せないほど、魅力的だった。
私の肌は、砂漠の太陽によって、どんどん黒く焼かれていった。
でも今思うと、その旅の間、
肌より心の方を、もっとチリチリと焼いていたようだ。
炎上!水かけまーす。
現在の私の感想・・・
いやぁ~。中年の豚女の僻みが、いい感じで滲み出ているエッセイですな
。
女は所詮、若さと美しさですよ。
ぷりぷりであれば、崇められる。
すべて許される。
男性だけでなく、
今のババアでさえ、
圧倒的な若さと美しさの前ではひれ伏してしまうもの。
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2000年、惨めな年越し、マクドナルドで過ごす元旦
hh1999年、12月29日、私とソンヘイは旅行から帰ったきた。
私は、大家族のホストファミリーの家へ。
彼女は、友達の家へ行く予定だった。
「せっかかの2000年なのでパーティーをしよう」
「みんなでカウントダウンしよう」
と、私にソンヘイを紹介してくれた日本人の友達に誘われていた。
彼女は、2DKのアパートを友達とシェアしていた。
その友達も韓国人だからと、みんなでワイワイ過ごそう!という話だった。
なのだが・・・
旅行から帰ってきて、私たちが彼女に連絡をとると
「ちょっと、まだどうなるか、わからない」
「友達に聞いてみないと・・・」
と歯切れが悪い。
実は、私は前から、だんだんと彼女に避けられているのでは、と感じていた。
私は、いつも、人から嫌われてしまうのだ。
私のことが嫌いなのは、仕方ない。
でも、行き場所のないソンヘイだけは泊めてもらいたかった。
仕方ないので、ソンヘイも私のホストファミリーの家に来た。
倹約家の彼女には、ホテルに泊まるなどという選択肢はないのだ。
帰ってきた私たちをみて、ホストファミリーは、ちょっと嫌そうだった。
「あれ~、年末は、友達の家で過ごすんじゃなかったの?」
「彼女(ソンヘイ)はいつ帰るの?」
そりぁ、年末くらい、家族で水入らずで過ごしたいよね。
30日、31日とホストファミリーの追求は強くなる。
「彼女の家は?」
「元旦はどうするの?」
ホストファミリーの言い分はよくわかる。
年末に自分のところであずかっている子がいるだけでもうざいのに、
その友達まで転がりこんでいるのだから。
圧力に耐えられず、自腹をきって、お菓子とお金を用意した。
それをソンヘイに持たせて、
「これは、お世話になっているお礼です」
「本当にすみません」
と言わせた。
ホストファミリーは、お金は受け取らなかった。
本当に申し訳なかった。
でもありがたかった。私も貧乏だからね。
ともかく、ソンヘイだけでも年越しは、友達の家で過ごさせてほしい。
私は、30日も31日の彼女に電話した。
「ごめ~ん、まだわからないんだ」
自分ことが嫌いな人に頼み事をするのは、本当につらい。
何度も、自分が嫌われていることを確認しなくちゃならないから。
でも彼女が嫌いなのは、私だけなのだから、と思い何度も電話した。
でも、結局、断られた。
「車に乗りきれないの。だから無理。」
カウントダウンまで、数時間前のことだった。
結局、そんな中、2000年を迎えた。
本当にわびしい年越しだった。
新年が明けて、
昼間だけでも、ホストファミリーの迷惑にならないように外にでた。
でも、元旦に開いている店なんて限られている。
こんな時の・・・マクドナルドに行った。
お客はほとんどいなかった。
まぁ~元旦だもんな・・・
客は、私たちと男性ひとり。
彼はひとりだったが、ずっと誰か?と大声で話しをしていた。
「Hi, is there ~?」
「Hi, it is me」
「I know. I know. I know.」
どんどん声が大きくなる。
うるさい
「I don’t know!」
私は、心の中で怒鳴り返した。
彼は、1時間ほど、電話?で話していた後、マクドナルドを出て行った。
静寂が戻る。
ソンヘイは眠り始めた。
何時間もいる私たちに、店員がしびれをきらした。
「あの~ちょっと長く居すぎるのでは?」
「あなたの友達にいたっては、寝っちゃっているし・・・」
「す、すみません・・・」
私たちはマクドナルドを追い出された。
KFCに行く?
外は寒い。
家には帰れない。
仕方ない!
私たちは、バスに乗って、違うマクドナルドに行った。
やはり、そこしかない。
ありがとう。マクドナルド。
そうやって、やはり誰もいないマクドナルドで、ぼ~と座っていた。
すると、トイレから誰かがでてきた。
「I know. I know. I know.」
数時間前に別れたあの電話男ではないか!
あぁ、元旦マックの仲間!
私は、激しい親近感を覚えた。
そして
「 I know too!」
と答えていた。
今の私の感想・・・
たった一日、帰るところがなくて、この騒ぎ・・・
私はこれから一生、帰るところがなくなるというのに。
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ババア、アメリカ人(元夫)にナンパされる!そしてはじめてのチュウ?
元夫は、ニコニコと笑いながら、話しかけてきた。
そこで、15分ほど、おしゃべりをした。
日本から来たこと、学校のことなど話しただろうか・・・
彼の英語は、先生の英語より、さらに聞き取りやすく、
話をしていて楽しかった。
そのうち、彼が
「もしよかったら、これからお茶でも飲みにいかない?」
と聞いてきた。
えっ、これってナンパ?
しかし、時間はすでに夜の10時!
彼は今、会ったばかりの人。
き、危険だぁ~。でも
「あんたのことよく知らないし、危ないじゃん。」
とは、言えない。
だ、だって・・・なんか、もったいないじゃ~ん!
「ごめんね。門限があるの」
ふと、ナイスな言葉が出た。
やっぱ、私って天才だわ。
すると、彼は
「君のこれからの英語の練習のために、また会えないかな?」
と聞いてきた。
敵もなかなかの策士である。
アメリカに来て、数カ月たつが、英語を話すのは、先生とハウスメイトだけ。
ホストファミリーは、忙しく、ほとんど相手にしてもらってなかった。
後は、ほとんどの時間を日本人の友達と過ごしていた。
なんか、アメリカにいる実感がなく、映画を見ているようだった。
アメリカ人を見ることはできても、触れることはもとより、話すことすらない。
こんな状況で、その誘いは、すっごく嬉しかった。
ちょうど、バスが来た。
彼は大急ぎで、彼の電話番号を書いて渡してきた。
「電話、待っているから」
バスのドアが閉まった。
家の帰り、早速、このことをハウスメイトの韓国人、キュワンに話した。
「一人じゃ怖いから、一緒に会いに行ってくれる?」
彼女は、韓国人の彼氏がいた。
「彼に聞いてみる」
次の日、彼氏は
「だめ!だめ!絶対危ない!」
と大反対だった。
「Micchieeも行くな!アメリカ男子は、原子爆弾より危険だぞ!」
そ、そうなのか?
結局、クラスメイトの日本に女の子たちが興味を持って、
一緒に行ってくれることになった。
総勢、私含めて4人。
初デート?は、4対1で行われた。
「男はオオカミよ」
というが、彼は羊のように、ものすごく穏やかな人だった。
(まぁ、その時は・・・)
そのうち、二人だけで会うようになっていった。
しばらくたった頃、
喫茶店でおしゃべりをしていたら、
彼が、そっと、口を寄せてくる。
私は、彼に惹かれてきていた。
で、でもここでは、ちょっと・・・
「え~い、この世の思い出じゃ!」(意味不明)
とキスした。
口を離すと、彼はまた寄せてくる。
もう頭の中で、ケンシロウ(北斗の拳)の声が鳴り響いてきた。
「アタッ、アタタッ、アタタッ」
やっと、離れたと思いきや、またまたキスしてくる。
「アタタタタタタタタタッ」
「日本は、公共の場では、キスしないんだよ」
と一応言ってみる。
「アメリカじゃいいんだよ」
との返事、そしてまた、
「アタタタタタタタタタタタタタタタッ」
もう、お願い、誰か、ケンシロウを止めて!
30分!!くらいそうしていただろうか、店員がやってきた。
「あの~店内でキスしないでくれます~」
「!!!ひ・で・ぶ~!!!」
私たちは、このヒデブ~事件から、友達から恋人になりました。
現在の私の感想・・・
私の人生は、99%の鬱と1%の躁の状態で、できている。
正常な状態な時はないのだ。
完全にこの時は、躁状態だったんだろうな。
そして、躁状態にやってしまったことを、鬱状態のときに永遠と悩む・・・と。
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ババア、クソじじいに付きまとわれた後、(元)夫に出会う!
2000年、1月5日のことだった。その時、私は猛烈に機嫌が悪かった。
最悪の年末の疲れを抱えたまま、その日から学校がはじまった。
クラスの後、先生が
「今日これからスクールアクティビティで映画を見に行くけど、行かない?」
と聞いてきた。
疲れていたし、気分の悪かった。
が、こういう時こそプラス思考で、物事にチャレンジしていくべき!
と参加することにした。
(今の私;私にもこんなふうに考えていとことあったんだ!)
しかし期待は大ハズレだった・・・
もっと輝ける!
その映画を見に行ったとは、先生2人、生徒4人だけだった。
映画は最悪!
セックスシーンで始まった。
ア~ン、ア~ン。
もう、みんな固まった。どうリアクションしていいかわからない。
そのシーンがやっと終わったと思ったら、永遠と暴力シーン。
そもそも何言っているかわからないし、
これってどんなストーリーなのか全然わかりませーん。
どんどん気分が悪くなっていった。
参加した日本人のじいさんは、そうそうに諦めて、眠りの世界に・・・
じいさんは、私の前にいたのだが、大口を開けて、思い切り後ろののけぞってきた。
もう、頭が私の太ももに、つかんがばかり・・・
目の前には、大口じいさん。
そして、その向こうには血がどひゃ~。さらにどひゃ~。
頼むから、映画よ。早く終わっておくれ。
やっと映画が終わって、学校に帰れることになった。
ほっとして、スクールバスに乗っていると、
じいさんが私を口説いて?くる。
「学校に着いたら、そこから車で家まで送っていってあげるよ。」
「ありがとうございます。でもバス(公共の)がありますから。」
「でもバス停で待つの大変でしょ。」
「いいえ、結構、本数あるんですよ。」
「でも今日はこんなに寒いし。」
「おかまいなく。」
「かわいそうだから、送るよ。」
かわいそうだと、思ってくれるなら、頼むから開放してくれ!
「大丈夫ですから」
「で、家はどこなの?」
って。じいさん、(俺の、俺の)話を聞け~~~。
バスが私たちの学校でなく、どこかの大きな大学のそばに来た時、たまらず、
「運転手さん!ここでおろして!」
と叫んでいた。
よくわからないが、こういう大きい大学ならバスがいっぱい走っているはず。
ホームステイしている家まで、帰れるバスもあるだろう。
ぽか~んとしているじいさん尻目にさっさとスクールバスから降りた。
やっとじいさんから解放された。
バス停はどこだ。
やっと見つけたバス停は、なんだか寂しいところにポツンとある。
誰もいない。とても静かだ。そしてとても暗い。
寒くて、暗い中、バスを待っていたら、なんだか怒りがぶり返してきた。
あのじじい~。
「じじい~!うざいんだよ~!」
「おめえなんか、大嫌いなんだよ~!」
誰もいないことをいいことに、真っ暗な中、叫んだ。
すると突然、道の向こうから、笑い声がした。
どうやら車の影に男性が2人いたらしい。
まじか~。恥ずかしい~。
今日って、なんてついていないんだ。
ネガティブの塊のくせに、なまじっか、ポジティブ思考の挑戦したからだ~。
そのうち、その2人は別れ、そのうちの一人がこっちにやってきた。
「どうしたの?彼氏と喧嘩でもしたの?」
それが私の夫となる人との出会いだった。
(長い前振りだった)
現在の私の感想・・・
これが、私の夫(もうすぐ元夫になるが)の悲劇に始まりだったな~。
人間、どこに人生の落とし穴があるか、わからないね。
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ケチな友達と、餓死寸前、アメリカ旅行
私が勉強していた語学学校のあった場所は、ゲイで有名な町だった。
私は、せっかかそんな好条件?の町に住んでいるのだから、
どうしても「ゲイバー」とやらに行ってみたかった。
でも一人で行く勇気はない。
学校中の子に声をかけたが、私と一緒に行ってくれる子はいなかった。
そんな中、あるクラスメイトの友達が
「私も行ってみたい」
と言ってくれ、私は願いをかなえることができた。
それがソンヘイだった。
そんなよしみで、急激に仲良くなった私たちは、
クリスマスバケーションを一緒にすごすことにした。
サンフランシスコ、ロサンゼルス、ラスベガスへ
2週間の旅に行こうと決めた。
ソンヘイは、私よりずっと若かったが、英語がペラペラで、頼りになり、
ホテルの予約など、本当に助けてもらってばかり。
また彼女は、好奇心旺盛で、頭がよく、アクティブな子だった。
なのに・・・
私にとって、この旅行は、とても辛いものになってしまった。
ソンヘイは、とても倹約家で、
お金のことばかり気にしている子だったのだ。
それによって、一番困ったのは、
食べ物を満足に食べれなかったことだ。
サンフランシスコの安ホテルでは、朝飯にコーヒーとドーナッツが出た。
このドーナッツを1,2つ余計に取っておいて、
これをお昼にしなければならなかった。
時には、夕飯もこれで過ごさねばならなった。
次のロサンゼルスでは、状況が悪化した。
ドーナッツがパンに変わったため、
これで昼、夜すべて賄わなくてはならなかった。
私は、いつもひもじくて、ガムを噛んで、空腹を紛らわしていた。
ラスベガスまで来て、やっとおなかいっぱい食べることができた。
ホテルが宿泊客に、バイキングのチケットをくれたからだ。
本当に餓死するかと思った。
彼女のケチ、いや倹約家ぶりは、徹底していた。
サンフランシスコでは、最も安いレストランを選んで入ったのに、
さらに最も安い料理を探して、頼んでいた。
彼女はそのメニューが読めないので、指をさして注文したのだが、
会計の時に、実は食べたものは、
彼女が指さしたメニューの一つ上のもので、数ドル高かった。
「レストラン側の間違えだから、絶対にお金を払いたくない」
と言う彼女と、
「すでに全部食べてしまったのだから、お金を払え」
というレストラン側で、ものすごい言い合いになった。
私はたまらなくなって
「差額は私が出すから!」
と言っていた。
なんで、私が・・・と思ったが、
そうでもないと永遠にこの不愉快なやり取りが続きそうだったから。
同じくサンフランシスコで、彼女は玩具のミニバスをほしがった。
ミニバスは、サンフランシスコのシンボルみたいなものだから。
でも、一番安いものを探すために3日かかった。
結局、彼女は2ドルのものを探しだした。
また、私たちは超格安ホテルに泊まっていたのだが、
彼女は、その枕銭1ドルを払うのを、かたたくなに拒否した。
私ひとりが払うのは理不尽は気がしたが、
旅行ガイドに「払うように」と書いてあったので、払い続けた。
他にも、バス代が高いと言っては、
年齢をごまかして、半額で乗ったりしていた。
アジア人が子供に見えるって、本当だったのね。
写真も一枚も撮ってくれなかった。
「そこに立って」
カメラを向けてくるので、ポーズを取ると、
シャッターを押さずに、自分のカメラを、私に差し出してくる。
そして、私の立っていたところに彼女が立ち、
私に、彼女がいた位置に行って、彼女の写真撮れ、というのだ。
彼女が私にカメラを向けたのは、私を撮ってくれようとしたのではなく、
自分がどのように映るか、と確認していただけなのだ。
これは、2週間ずっと、一日に何度も繰り返された。
(当時は、フィルムカメラだったから、一枚でも無駄にしたくなかったのだろう。ましてや私のために使うなんて、我慢できなかったのだろう。)
私がごちそうすればよかったのだろうが、私だって、そんなに裕福ではない!
また、ケチな人といると、これ負け時とこっちもケチになるから、不思議だ。
このケチさが、役に立ったこともあった。
ユースホステルで、車持ちの韓国人の男の子2人と仲良くなり、
ユニバーサルスタジオとディズニーランドへの行きかえり、
同乗させてもらえた。
韓国人のお土産屋さんをしている人に一日市内を案内してもらい、
さらに夕飯までごちそうしてもらった。
これは本当にありがたかった。
また、ロサンジェルスからラスベガスまで行くのに、
超格安のバスに乗ることができた。
このバスは、ラスベガスの市街地から離れたホテルで、
カジノを楽しむ ロサンジェルス在住の韓国人専用のバスだった。
多分、カジノ側が集客のためバス料金も払っているのだろう。
ものすごい安いバス料金だったが、一定時間、そのホテルのカジノにいなければならなかった。
彼女が倹約に貪欲であったおかげで、いろいろな人に出会えた。
みんな、本当に親切だった。
コミ障の私には、絶対できない旅行であった。
グットジョブ
現在の私の感想・・・
20年前には、私と旅行をしてくれる友達がいたんだな。
なのに、私のこの言いよう・・・
私の根性が曲がっているところは、変わっていないようだ。
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ババア、外国人から熱烈に告白される⁉
私のアメリカ生活が始まった。
ホストファミリーには、5人もの子供がいて、
私の相手をしているヒマはない。
また、私は英語が悔しいほどに話せない。
こんな私の慰めは、ハウスメイトの韓国学生キュワンだった。
キュワンは、私のめちゃくちゃな英語を理解しようとしてくれ、
また私も彼女の英語ならわかった。
キュワンは私より年下だったが、まるで保護者のようにめんどうをみてくれ、
毎日のようにおしゃべりをした。
彼女の存在はまさに砂漠の中のオアシスだった。
ある日、彼女の誕生会が仲間で開かれるということで、
キュワンは私を連れて行ってくれた。
そこにはキュワンの友人である十数人の韓国人がいた。
彼らは一様に親切だった。
皆、韓国語で話しているのだが、お酒がはいってワイワイしだすと、
言っていることがわかってくるから不思議だ。
それにしても酒というのは、人と人との隙間を埋める魔法の液体だ。
そして「イッキ」は両国の友愛を生む。
その誕生日会から数日後、キュワンが
「一緒に買い物に行こう。この間、誕生日に来ていた男の子も来るよ」
と言った。
今思うとなんとなく不自然な誘い方だった。
ダウンタウンで彼と待ち合わせした。
すると彼の手には一本の深紅のバラが…。
それを私に差し出してくる。
???だったが、くれるモノは何でも有難くもらう質なのでもらった。
豚に真珠
スターバックスでコーヒーを飲み始めると、彼は
「自分はあれからあなたのことばかり考えている」
と熱烈に告白してきた。
マジかー!
あまりのストレートさに
(まぁ、歪曲に言われても、私の英語力では理解できんだろうが)
金縛りになってしまった。
「好き」って、誕生日で数時間、顔を合わせただけじゃん!
数時間後、キュワンと家に帰ってきたら、電話が鳴った。
出てみると彼だった。
今別れてきたばっかりなのに
「I miss you」
というではないか!
どひゃ~!
その後、彼から一生涯忘れられない手紙をもらう。
それは4コマの絵がかいてあり、その横に文章が書いてあった。
1コマ目。針と糸の絵。「糸と針は役に立つ。なぜなら共にいるから」
2コマ目。花と蜜蜂の絵。「世界は美しい。なぜなら花と蜜蜂が共にいられるから」
3コマ目。月と星の絵。「暗い中にあっても、月と星は寂しくはない。なぜなら共にいられるから」
ラスト。男の子と女の子の絵。「僕はもう寂しくない。とても幸せだ。すべてが美し見える。なぜなら、いつもずっと君と共にいられる事を信じているから」
うひぇ~!
さらに彼から毎晩!電話があった。
しかしさすがの私も、一週間後、夜中2時!の電話に爆発!
「君のことが心配なんだ」
という彼に
「I don't want your worry」
「Don't call me again 」
と言って電話を切った。
キュワンは
「私ならそんなにハッキリ言えないな」
と言ったが、
私は遠まわしに言えるほどの英語力がないんだよ~。
それから数カ月して、私は中国系の教会へ行くことがあった。
そこで知り合った台湾人の男の子がパーティーへ行こう、
と迎えに来てくれた。
その時さっと渡されたが、一輪の深紅のバラ。
ぞ~!
これって密かなブーム?
現在の私の感想・・・
彼から一生涯忘れられない手紙をもらう…と書いてあるが、
全然覚えていない。
そもそもこんなふうに男の子にもてた記憶が全然ない。
これって本当にあったことなのか?
いつもの私の妄想じゃないのか?
若いころの私って、こんなんだったんだゾ。
「面白かったかも?」と思ってくださったら
ポチと押してくださると大変うれしく思います。
ババア、英語もちっとも話せず、アメリカに来た!
私が初めてアメリカに来たのは、1999年10月末だった。
それまでワシントン州とワシントンD.C の違いもわからず、
カリフォルニアとカリフラワーの違いもわからない程の
超アメリカ音痴だった。
(いくらなんでもそれはないか!)
又、私はusuallyを「ゆずゆありー」と読んでいたほどの
典型的な受験英語の犠牲者でもあった。
(ってさすがにそれは私だけか)
学生時代、英語は大の苦手、いや、そんなもんじゃなく、
英語恐怖症といっても過言ではなかった。
そのため、英語は人一倍できず、
町で外国の人に声を掛けられると
「お~お~」と奇声をあげ、
顔が泣き笑いでひきつった。
(本当に怖がらせてごめんなさい)
最後には、声をかけられないように、
外国人の姿が遠くに見えただけで、逃げていた。
そのくせ、異国への憧れはあった。
彼らの金髪の髪は、
彼らの国の果てしなく続く麦畑を思わせ、
彼らの青い目は、
彼らの国のかなた地平線続く無限の空を想像させた。
はぁ~.(ってキモイ)
英語でそんな彼らばんばん会話ができる日本人を見て、
羨ましくて仕方なかった。
自分とはかけ離れた別世界だった。
はぁ~。羨ましい。
こんな私がアメリカに来た。
本当によく来れたもんだと思う。
XXXXに着いたとき、(ここは私が今も住んでいるアメリカの都市である)
飛行機はXXXX上空まで来ていながら、
霧のために着陸できなかった。
一時間ほど旋回した後、燃料が足りなくなって近くの都市に一時着陸した。
そこで数時間過ごして、
XXXXの空港にやっと着陸した時には、
XXXXに来てから6時間が経過していた。
その到着時のアクシデントは、
その後の私の前途を暗示しているようで憂鬱にさせられた。
(で、その通りだったわけだが)
空港には旅行代理店の人が迎えに来てくれていた。
(長いこと待っていてくれてありがとう)
それから、私がお世話になるホームステイの家に連れて行ってくれた。
初めてのホームステイ先は5人もこどもがいるカソリックの家であった。
彼らに
「How are you?」
と聞かれてもすぐ
「Fine, Thank you.」
と答えられずに
「Hi」
としか返事ができない私!
ク~~~涙!
子供たちとも会話ができない私。
ひとりぼっち。
その家にいた犬だけが私の心を和らげてくれた。
そう私たちはお互い英語ができない者どうし、まさに同志!だった。
私たちは
「ワン!」
「お~よしよし、お前もそれくらいしか話せないのか」
「バウ!」
「お~私を裏切って英語をはなしやがって」
と会話?したものだった…か、悲しすぎる!
現在の私の感想・・・
20年たっても英語力は、この時とたいして変わりません。
引きこもっていると、本当、時間の流れが早い。
この時から、かれこれ20年たつのか・・・
怖!
「面白かったかも?」とおもってくださったら、
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